Monday, May 18, 2015

Translation into Japanese by Professor Takayoshi Iwata

神戸のユダヤ人

岩田隆義

はじめに
 神戸の北野町・山本通には、ここそこにユダヤ人が住んでいたという話が残っている。しかし、彼らのその姿はようとして見えない。日本人との暮らしの中で、彼らが、いつごろから住み、どのように暮らし、どんな人たちだったのか多くは伝わっていない。我々は、ユダヤ人を見てはいても、実は、見えていなかったのである。
 ここでいうユダヤ人とは、人種的・血統的に特別な民族を指すものではない。ユダヤ教を信じている人という意味であり、また、自分自身がユダヤ人であるというアイデンティティを持つ人の意味である

 タマール・エンジェルは、「これら(神戸)の文化の中に、ユダヤ人が、神戸の多民族共同体の一部を構成しているのをみつけても驚くことはない。」といっている[1]。何という自負であろうか。わたしは、ユダヤ人が、神戸の歴史の中に、たくましく確かな足跡を残しているのを知るたびに、自分の不明を恥じながら、実のところ、驚嘆しているのである。彼らは、それほどまでに強く神戸という地に深く根付いているという意識を抱いているのである。そして、その圧倒されるような同族意識と自意識の強さに、今更のように衝撃を受けている。

 神戸の外国人墓地には、約2,490人の外人が埋葬され、その内121人がユダヤ教徒である。その内、最初に死亡したユダヤ人と確認されているのは、1901(34)126日のイタリア国籍のロザデル・ボルゴである。続いて、イギリス国籍のハーマン・マーカス 1901(34)722日死亡、そして、イギリス国籍のシラス・エゼキル・レビィ1903(36)919日死亡となっている。
ユダヤ人は、明治の末年から、確かに神戸の地に生き、神戸の地で暮らしていたのである[2]

1.   神戸に来た最初のユダヤ人
 タマール・エンジェルによると、
「最初のユダヤ人は、ほとんど貿易商だった。当然のことながら彼らは港のあるところに引き寄せられた。日本が西洋の商業に開かれた1862(文久2)年の後すぐ後にやってきた[3]1860年代の後半に様々な国の50世帯のユダヤ人が横浜に住んだ。1880年代には、ユダヤ人は、ロシアとの貿易で重要だった長崎にも住んだ[4]20世紀に変わるころ、長崎は日本で最大のユダヤ人共同体だった[5]。神戸には、そのときまでに、ユダヤ教の宗教施設とシオニストの組織があり、機能していたユダヤ人共同体があった。そして、19世紀の末、長崎では、ロシアとの貿易が衰退したことや、横浜では、1923年に関東大震災があったことから、その2つのユダヤ人共同体のユダヤ人は神戸に転居した。」としている。

 モッシュは、同様に次のようにいっている[6]
  「それまで非常に活発だった長崎のユダヤ人共同体は、19041905(3738)年の日ロ戦争の間に解散し崩壊して、トーラー(モーゼの5書・聖典)の巻物を神戸のユダヤ人に渡した。神戸のユダヤ人の中には、1905(38)年のロシア革命のとき、皇帝軍に加わり、捕虜となり解放された兵士の集団もいた。1900年代の初めから中ごろにかけて、神戸のユダヤ人共同体は、大体ロシアから来たユダヤ人と中東から来たユダヤ人で構成されていた。たいていの場合ロシアのユダヤ人は、満州のハルピン経由で日本にやってきた。満州には、3つのシナゴーグと1つのユダヤ人学校があり、約3万人のユダヤ人が住んでいた。バクダディのユダヤ人として知られている中東から来たユダヤ人は、元々今日のイラクとシリアから神戸にやってきた[7]。そして、イェーメンやイランから、また、中央アジアや中東の他の地域からも同じように神戸にやってきた。その他のユダヤ人は、中央・東ヨーロッパと特にドイツから日本にやってきた。」


   また、ゾラフ・バルハフティクによれば、
1905(38)年、…中略 長崎には、一人のユダヤ人も残っていない[8]。この過密国日本に、ひとつだけ小さなユダヤ人社会があった。神戸に30家族ほどいた。ロシアから革命後逃げてきた人たちだった。東京と横浜にも、ユダヤ人がいたが、それぞれ数家族だった。神戸には、バグダット、バスラおよびテヘラン出身の東洋系ユダヤ人もおり、小さな社会を形成していた。いずれも貿易をなりわいにする人々だった[9]。」とある。 

 以上の記録から、明治末年までに神戸にユダヤ人が居留していたことが推定される。そして、1905(38)年日ロ戦争終結とともに、長崎のユダヤ人共同体が消滅して、ユダヤ人共同体が神戸に成立したことは、ほぼ間違いないと思われる[10]
2.   大正から昭和初期のユダヤ人
   モッシュは、次のように話している。
1917(6)年のボルシェヴィキ革命のときに何千というユダヤ人亡命者に、横浜と神戸のユダヤ人たちは日本政府の協力を得て意味のある援助をした。しかし、多くの亡命者たちは必要な資金がなかったため日本に上陸できなかった。この問題は、ニューヨークのクーン・ロエブ金融会社の社長であり、アメリカヘブライ人移民救済協会の会長であったジェイコブ・シフのおかげで解決した。彼が日ロ戦争のときに、日本に金融面の重要な援助をしていたので、横浜と神戸に乗り継ぎセンターを設立するという要求がすぐに承認された。

   19201921(910)年の間、…中略 その当時神戸には組織されたユダヤ人共同体はなかった。しかし、200人のユダヤ人が住んでいた。半分はイギリスとアメリカとバクダッドから来ており、かれらは、自分の会社を持っているか、外国企業の代表であった。残りの半分はロシアからの逃亡者でボルシェヴィキ革命が終わったら、帰国するか太平洋を渡ってアメリカに行くことになっていた。…中略 ヤブロフはコーエンに金曜の夜にシナゴーグをもたらした。そのシナゴーグはまちがいなく民家の中にできたユダヤ教の信仰の場所であった。そこは簡単な箱舟と地元の大工が作った読み机があるだけの質素な所であった。壁にはシオニストの旗が掲げられていた。コーエンはそこでシオニストの大義に寄与するように説教をした。そして、シオニスト協会が設立されることが正式に決定された。…中略 セファルディム系とアシュケナジム系が別々にシナゴーグを開いた[11]。」

この記録により、大正中期以降になって、神戸に、ユダヤ教の信仰の中心となる場所・シナゴーグができたことがうかがわれる。

ゾラフ・バルハフティクによれば、当時のユダヤ社会は、以下のようだった。
「神戸のユダヤ人社会は、かなり組織化されていた。小さなシナゴーグがひとつあった。沐浴斎戒用のミクベ、そして、家畜屠殺人のショヘットのほか割礼式を執行する人も一人いた。しかし、アシュケナジム社会とセファルディム社会の関係は冷たかった。横浜にユダヤ的日常生活を送るすべはなく、ときたま安息日にシナゴーグの礼拝が行われる程度だった。日常生活の中で起きる宗教上の諸問題は、神戸のほか海外のユダヤ社会に問い合わせて解決された[12]。」
 
神戸でシナゴーグができた後、ユダヤ共同体がかなり宗教的にかたちを整え、神戸が日本のユダヤ教の中心となってきたことが分かる。

ゾラフ・バルハフティクによれば、大正中期以降のユダヤ社会の特質を次のように述べている。バルハフティクの純粋で率直な述懐をそのまま受け止めたい。それは、ユダヤ人自身がユダヤ人を語り、ユダヤ人の性格や行動をありのままに表現しているように思われるからである。しかし、神戸の人々とユダヤ人と交わりが少なかった理由をここに求めるのは、あまりにも性急で、皮相である。

「日本のユダヤ社会は、ユダヤ世界の中心から遠く離れ、その生活は寥々たるもので淋しいかぎりだった。ユダヤ人は周囲の異質な文化的な環境にとけこむことなく、さりとて独自なものを埋め合わせる手段や方法をほとんどもっていなかった[13]。」



モッシュは、ユダヤ人共同体は、1931(6)年に始まったとしている。
「神戸のヴィクター・ケリーのことがのった新聞記事の中に、コングリゲーション(ユダヤ教徒)の集会とユダヤ人共同体は、1931(6)年に神戸の山本通の北岡ハウスで始まったと記載されている[14]1939(14)年までは、コングリゲーションは、セファルディム系が優勢だった。シナゴーグは、新しい場所に移った。ところが、東ヨーロッパから新しくやってきたアシュケナジム系の難民を収容するために、また、1941(16)年の初めに、別の場所を借りた。」
モッシュの記録から、北野・山本地区に、ゆかりのあるユダヤ人の足跡をたどることができる。
「サム・エヴァンスは、ロシア系ユダヤ人で、オデッサのエワノフスキーから、1919(8)年に神戸にやってきた。彼はその船でアメリカに行こうと計画していたが、その船が一日停泊している間に下船して、船の雑貨商の仕事を習い覚えた[15]。」
   「エズラ・シュウエケは、シリアのアレッポから1935(10)年にレバノン、香港、そして、上海経由で日本にやってきた。彼は、繊維業で働いた。彼は妻ルーシーと結婚するためにシリアに行き、1936(11)年に神戸に戻ってきた[16]。」
   「ラーモ・サスーンは、1936(11)年の3月に日本にやってきた。そのとき彼は24歳前後だった。彼はアレッポ出身のラモ・シャヨと一緒にきていた。彼は独身で仕事で日本にやってきた。2人は大きなイタリアの繊維会社の代表であった。ラーモ・サスーンは、日本が好きになった。仕事がうまくいったので、日本に残る決心をした。白人で外国人であればイギリス人として扱われた。日本人は白人を尊敬した[17]。」
   「アシュケナジム系とセファルディム系の共同体の関係は冷えていた。それにもかかわらずアシュケナジム系の人々は、4つの品物の恵みを供えるスコットの祭りにはセファルディ系のシナゴーグに出席した。それが終わってからアシュケナジム系の人々は、自分たちのシナゴーグに戻って祈りをささげた。4つの品物は、毎年、祭りの前夜に上海から日本に届けられた[18]。」
神戸にゆかりのあるユダヤ人は、主に昭和10年代にやってきた。ユダヤ教の二つの宗派の関係は、うまくいっていなかったが、双方の努力で、協力関係を維持していたようすがうかがえる。
タマール・エンジェルは、その間の様子を次のように述べている。
  「第2次世界大戦のかなり前、神戸に比較的大勢のユダヤ人が現れてきた。イラクのバグダッドやシリアのアレッポからセファルディム系のユダヤ人とポーランドとロシアからのアシュケナジム系のユダヤ人が貿易を通じてやってきた。ポグラムを逃れてきたロシア系ユダヤ人もまた神戸にやってきた。ロシア系ユダヤ人の共同体の著名な一人がサム・エヴァンス(オデッサのエワノフスキー生まれ)である。1919(8)年ごろ神戸に住んだ。長年にわたって、彼はユダヤ人共同体の指導者であり、ビジネスマンであり、そして、博愛主義者であった。彼は、まちがいなく日本国籍をとった最初のユダヤ人である。神戸で最初のシナゴーグが借家につくられた。そこはセファルディ系の集会所として役立った。1912(㍽元)年シリアのアレッポに生まれたラーモ・サスーンがそのシナゴーグの責任者になった。ラーモ・サスーンの父シェロモー・サスーンの名をとって、そのシナゴーグはオヘル・シェロモーと名付けられた。」とある[19]
3 第2次世界大戦と神戸のユダヤ人
エンジェルは、「第2次世界大戦勃発とともに、ラーモと他のユダヤ人たちは神戸に釘付けとなり、旅行も仕事もできなくなった。」と述べている[20]

ゾラフ・バルハフティクは、極東に逃れてきたユダヤ人難民を二つに分けている。
1939(14)年から1941(16)年にかけて、極東に来たユダヤ人難民は二つの波となって流入した。その一波は、1938(13)1110日起きたクリスタル・ナハト(水晶の夜)事件をきっかけに大量のユダヤ人がドイツから直接上海に出国した。1939(14)年の中ごろには、上海のユダヤ人は、15,000人に達した」という[21]
その第二波について、モッシュ、次のように述べている。
  「1939(14)9月ドイツがポーランドに侵攻。ユダヤ人難民はイタリア経由の上海または日本行きのイタリア船や日本船に乗れなくなった。地中海からの航路は遮断されていたので唯一の脱出できる東行きルートはソヴィエトのウラジオストック行きのシベリア横断鉄道であった。このルートは1941(16)6月のドイツのロシア進攻まで開かれていた。1万人以上のユダヤ人が命からがら逃げ出し、1939(14)10月から1940(15)5月までの間は、ポーランドから中立のリトアニアに入国することができた。その内の5,000人近くのユダヤ人が無事に日本にたどり着くことができた。
リトアニアのカウナスのオランダ領事ヤン・ツワルテンデックの援助によってユダヤ人難民の通行が許された。領事は、蘭領西インド諸島のキュラソーへの乗り継ぎと上陸許可という戸惑わせるビザを発行した。ユダヤ人難民はまた杉原千畝にも助けられた。彼はリトアニアの日本領事であり、1939(14)8月に引継ぎのために既に到着していた。杉原は本国日本政府の指示を無視し、日本への乗り継ぎビザが812日間あるパスポートを数千枚発行し続けた。彼は、1万人以上のユダヤ人の生命を救った。ツワルテンデックと杉原は、後にヤド・ヴァシムによって、イスラエルで正義の異邦人として顕彰された[22]。」

モッシュは、ユダヤ人難民受け入れのために、神戸のジューコムというユダヤ共同体が活動したことについて、次のように述べている。
「アシュケナジュウム系のユダヤ人共同体が、電報の宛名のために付けた1938(13)年のJewcomジューコムという名前が有名になった[23]
1940(15)6月、神戸のアシュケナージ系のユダヤ人共同体は、乗り継ぎをするユダヤ人7人の保障を要請する手紙を日本政府に出すようにという電報を受け取った。2日後にまた要請が来た。それからどんどんと要請が来た。1940(15)年から1941(16)年の間に2,000人を超す避難民と過ごしたポネヴェスキーは、彼の義理の兄モイセ・モイセフとレオ・バーンと一緒に神戸のユダヤ共同体の25家族の会合を開いた。 …中略
日本の当局を説得して難民の神戸での滞在期間を延長させた。ユダヤ人共同体は移民の手続き、仮の住まい、日本国内の旅行、出国、ビザの問題などに協力して対応した。要請は、ニューヨークの合同分配委員会(The American Jewish Joint Distribution Committee)に提出された[24]。返事は簡単に、『ユダヤ人を救え。金は問題じゃない。』(Save Jews Money No Object) と書かれていた。ジュ-コムは、ウラジオストックで立ち往生している難民に船賃を送ってやった。金が不足したら合同委員会に頼んだ。1940(15)年の7月にジュ-コム住宅委員会は近くの多くの小さな建物を借りた。そして、それを難民に無料で提供した。合同委員会(The Joint)は、ジュ-コムにアメリカの銀行を通して現金を送金して、費用を支払った[25]。」
 
 
① 神戸に来たユダヤ人難民の数
バルハフティクは、日本政府のユダヤ難民に対する姿勢を次のように述べている。
「日本に流入した数千のユダヤ人は、神戸に集中した絶対数がそれほど多くなかったから、日本社会の負担にはならなかった。住民は難民の境遇を理解し、行動で同情心を示した。しかしながら、日本政府当局は、外国人が日本に漂泊するのをあまり歓迎しないようであった。当時日本は、大戦に積極的に関与する準備を進めていたのだ[26]。」
金子マーチンは、神戸ユダヤ協会が作成した神戸レポートとデヴィッド・クランツラーの著書から引用している[27]1940(15)7月から1941(16)11月までの間にドイツ系ユダヤ人2,116名、ポーランド系2,178名、その他315名、総数4,609名が神戸に来たとしている。
また、バルハフティクによると、1940(15)7月から1941(16)5月末の11ヶ月の間に2,498名のドイツ系ユダヤ人と2,166名のリトアニアからの難民、合わせて4,664名が神戸に到着したという。また、1940(15)7月から1941(16)8月ポーランド系ユダヤ人難民2,718名が日本に来たとしている。
そして、「日本にやってくるユダヤ難民の波は、1941(16)6月の独ソ戦勃発とともに完全にストップした。」としている[28]。 
1995(平成7)812日付け朝日新聞は、「アドルフたちの50年」中で、宮澤正典同志社女子大教授の調査から、1940(15)7月から1941(16)4月にかけて、ユダヤ人難民は、4,388人に上ったとしている。
 
ユダヤ人難民の数は、神戸に来たユダヤ難民の時期や期間や調査の手法の違いもあり、正確な数は、把握できない。しかし1940 (15) 7月から1941(16)年8月までの間に4,000人を遥かに越えるユダヤ人難民が、神戸を通り抜けたのは、紛れもない事実である。
    神戸でのユダヤ難民とジューコム
 モッシュは、北野町・山本通に着いたユダヤ人難民の生活ぶりとジューコムの活動について、次のように述べている。
「ジュ-コムは、The Joint(ジョイント)とHICEM(国際ユダヤ人機構)から難民の食料、衣服、住居、そして、医療を確保するためにそのほとんどの財政的支援を受けていた[29]。難民が神戸に来る初期の段階では、到着直後の難民の救済活動の資金のいくらかは、神戸在住のユダヤ人から供出された[30]。中略
 
「ユダヤ人難民たちは、借りたマットレスを床の上に敷いて寝ていた。彼らは、食べられるものを食べ、ほとんどの時間をユダヤ共同体センターの前の道で過ごしていた。彼らのヨーロッパ人の顔つきと長い黒いあごひげは、この東洋の町の中で際立って目立っていた。ジューコムの正門に告知板があって、ビザ申請が認可された者のお知らせやその他の重要なニュースが貼りだされた。警察は大変協力的で難民にタルムド・トーラーの巻物を開くのを許した[31]


 ジューコムは、普通の一般住宅やホテルを難民のための寄宿舎として使った。寄宿舎はいつも一杯だった。難民一人一人に一日につき1.5円(25セント)が手渡された。これは、アメリカ本国の通貨規制によって、1.2(19417月では、21セント)に減額された。この金のおかげで難民たちが最低限の果物、野菜、魚とパンの食事をとることができた。日本当局は、大量の小麦粉をユダヤ人に提供した。そして、過ぎ越し祭の祝いのために、アメリカからマートサ(パンの一種)が輸入された。800人近い難民がジューコムから派遣された看護婦や医師によって診療を受けた。ジューコムは、日本の役人との関係を築いていたので、万事うまく運んでいた[32]。」

   1941(16)2月ごろから、各紙にユダヤ人難民への差別意識を助長するようなキャンペーンが始まっている。当時の国策に沿った報道で、非人道的で、到底許されるものではない。当時の北野町・山本通やユダヤ難民の様子を伝えている。

   「『金持ちルンペン 神戸に忽ち避難街』「祖国なき民族、世界の無籍者といわれるユダヤ人が今日本に氾濫している。あらゆる国から追われきらわれ、今次の大戦には、迷える羊の姿そのままに、さらにまた重い悲しみをせおって地球の上をさすらい歩かねばならなくなったユダヤ人である。…中略ユダヤ人は、いづこへ行く?
ついさきほどまでアメリカ人が引き揚げたばかりで、ひっそり閑としていた山本通の外人住宅街は、港っ子の少しも気づかぬまにユダヤ人避難住宅No.1などとしるした家並がつらなった…まさに文字通りこつ然と神戸にユダヤ人街ができてしまっていたのだ。
神戸山本通4丁目の古風な洋館-No.3の洋館」ここには20家族63名のユダヤ系ポーランド人が雑居している、…どの部屋にも床の上には日本布団が何組となくしき放され、いまや生活力も反発力もないかのような痛々しさだ[33]。」
  「…そして、日本で唯一つのユダヤ協会のある神戸へ新しい流亡の路を見出したのである。…六軒の避難住宅を一戸一戸訪ねてみる…中略大多数の避難民群は中流以上だが、顔に微笑さえ浮かべ、鮭のかんづめに黒パンをかじっている姿には、世界中でその真の性格をもっとも把握しがたいユダヤ人の横顔を見るのである[34]。」
  「投機好きで、働き嫌い  第二の祖国ソ連に住み得ぬわけ …中略   ヘンリー・フォードの言葉を借りれば、『まづ骨の折れる肉体的労働をいとうこと、強固なる家族的意識と熱烈なる同族愛を有すること、宗教的本能に強烈なること、投機的営利事業、なかんづく金銭に関しては、狡猾かつ抜目がないこと』などが挙げられる[35]。」

   この記事には、ひとまず危機を脱して、不自由だが安堵しているユダヤ人の姿を見ることができる。
  モッシュは、そのことを次のようにいっている。
   「難民たちは、1940(15)年から1941(16)年の冬の初めにかけて、3ヶ月から8ヶ月の間、平穏に過ごした[36]。」
                                                                   
  ゾラフ・バルハフティクが、「History of Jewish Kobe, Japan」p10
中で「1940(15)10月に一人のポーランドの難民と弁護士が神戸に着いたときから、神戸の全アシュケナジム共同体(30家族)は、難民委員会になり、また、神戸のシナゴーグと他の共同体の施設は難民センターになった。」と述べている。北野町・山本通にシナゴーグを中心にした数箇所の施設が、難民受け入れ所として急きょ利用されたようだ。また、難民用住居として、多数の空き家になっていた洋館が借り上げられ、その中心となったジューコムの位置は、戦前から在住の北野町・山本通の地域住民の話から、おそらく現在の六甲荘の南、かつて存在したイースタン・ロッジのあたりであろうと考えられる[37]
  
③ 神戸を出国したユダヤ人の数
 マーティンは、
「日本への亡命に成功したユダヤ難民にとって、神戸や横浜は、安全な第三国へ向かうための中継地であり、最終的な亡命先とは考えられていなかった。…中略 日本国政府はユダヤ人難民の日本定住を決して容認しなかった。」と述べている[38]
モッシュによると、
1941(16)8月、アメリカは、日本に通商禁止を行った。日本は真珠湾攻撃に数週間準備した。難民たちは、日本軍が戦争の準備をしているのを理解していなかった。配給品ではあったが、そのときでも日本人は、難民を大変よく世話してくれた。ある日本人女性によれば、1941(16)年の8月までに、難民たちに日本本土を去るように難民たちに日本政府から命令があった。」としている[39]
  マーチンによると、「1940(15)71日から1941(16)228日の間にドイツ系ユダヤ人(オーストリアも含む)2,098名の内2,004名が神戸から出国。(出国先は、アメリカへ1,046名、上海へ39名が最も多い。)そして、ポーランド系574名の内、205名が神戸を去った。」としている[40]
    バルハフティクは、「神戸からの上海移送は、1941(16)4月に始まった。としている[41]
1941(16)1218日神戸新聞によると、「祖国なき流浪の人々ユダヤ人はいま神戸に90余名…」とある。
マーチンは、この間の事情を次のように述べている。
  「日米開戦後も『すでに滞在しているユダヤ人に滞在許可を与えた』かのごとくいうが、現実的には、それはさほど容易なことではなかったと察せられる。日本の大学で教鞭を執るユダヤ系の教授が何名もいたが、そのほとんどが対連合国開戦前に日本を去らねばならない状況に追い込まれた。…中略   また、神戸などに避難していたユダヤ人難民たちも、日本海軍の支配下にあった上海に設置されたユダヤ人難民を収容するための『指定地域』へ1941(16)年夏ごろから続々と送り込まれ、戦時中も日本に残留できたユダヤ人はほとんどいなかったというのが史実である[42]。」

マーティンは、1942(17)年末段階の在日ユダヤ人は、「176世帯 364人」まで減少したとしている[43]。そして、ユダヤ人難民が『自発的に日本を退去、上海に赴いた』かのごとき報道」にたいして、上記のように強く異議を唱えている。そして、「ユダヤ人難民は、『兵庫県外事課の強硬方針』により、追放された。」としている。
また、モッシュも、前ページのように、日本人女性の証言を取り上げ、日本政府が、「1941(16)年の8月までに、難民たちに日本本土を去るように難民たちに命令があった。」としている。金子マーティンがいうように、連合国との開戦後の日本は、原則的に外国人の滞在を認めておらず、日本に残留できた外国人にも、ユダヤ系であるかどうかは関係なく、長野県の軽井沢などに疎開するよう指示が出されていた。
そして、マーティンは、1941(16)12月の日米開戦の後、長年神戸に定住し、日本の侵略戦争にも協力したユダヤ系市民サム・エヴァンスやアレックス・トリブボフも軽井沢で隔離生活を余儀なくされたと述べている[44]。モッシュもサム・エヴァンスが軽井沢で数週間過ごしたことやエリー・エルバオムと彼の家族が軽井沢に1943(18)年に移ったことを記録している[45]
そして、神戸を出国したユダヤ人難民について次のように述べている。
1941(16)8月、アメリカは、日本に通商禁止を行った。日本は真珠湾攻撃に数週間準備した。難民たちは、日本軍が戦争の準備をしているのを理解していなかった。配給品ではあったが、そのときでも日本人は、難民を大変よく世話してくれた。…中略 1941(16)年の82日、モーリス・ワバは、上海に向かう船に乗船していた。その船には、ヨーロッパからの難民が2,000名乗っていた。ラビたちが喜んでダンスをするユダヤ人たちを先導していた。1941(16)9月までに目的地のビザを手に入れることができなかった神戸の1,100人の難民は、全員上海に移された。神戸のジューコムは、「神戸ユダヤ人コミュニティ(共同体)」と名称が変更された[46]

④ 神戸に残ったユダヤ人
前述のように、開戦後の日本は、原則的に外国人の滞在を認めておらず、日本に残留することが許された外国人であっても、ユダヤ系であろうとなかろうと、長野県の軽井沢などに疎開するよう指示が出されていた。このときの外国人には、当然のことながら、ユダヤ人難民は含まれていない。そして、そのような指示があっても、神戸に残留したユダヤ人もいた。何人のユダヤ人が神戸に残留したか正確な記録はない。しかし、モッシュの聞き取りから、神戸市北区の有馬文化村に14棟に20世帯のユダヤ人が避難していたことがうかがえる。神戸に最初のアメリカ軍による空襲があったのは、1942(17)4月のことである。神戸のユダヤ人は、1943(18)年ごろから、軽井沢に疎開を始めた。本格的なアメリカ軍の空襲は、1945(20)317日、511日そして、65日であった。まだ神戸に残っていたユダヤ人も、1945(20)3月から4月ごろにかけて、有馬の文化村に移ったと考えられる。また、文化村の所在は、有馬の戦前からの住民などの記憶から、神戸市北区有馬町1820辺りであると推定される[47]。そこは、戦後別名博士村(はかせむら)とも呼ばれ、優れた学者が出入りしていたとのことである。戦中・戦後は、外国人が野菜などの食料の調達に、田尾寺や二郎などから来た農民と接触することがあったようだが、ほとんど記録は残っていない。

モッシュの文化村に関する記述は、多数見られるがその一部を記載する。
()
「神戸が爆撃されているとき、ニシム・タウイルは、刑部に避難場所を探してほしいと依頼した[48]。かれは、文化村に行くように話した。20世帯が警察の保護もなく、電話もないそのリゾート村に移った。彼らは、金曜日の夜にはいつもミンヤン(礼拝)を持った。タウィルは、神戸の空襲のとき、エズラ・シュウケの母親を背負って逃げた。神戸ではミンヤンがとり行われなかった。というのは、というのは、彼らがセファ・トーラというユダヤ教の聖典をもっていったからだ[49]。」  

()「サム・エヴァンスもまた、軽井沢で数週間を過ごした。そして、かつて自分がユダヤ人共同体の名誉会長を務めた神戸に帰ってきた。彼は、神戸で1975(50)年に亡くなった。1945(20)65日、その日に神戸の半分が抹消され、7万人の人々が亡くなった。ゴールドマンは、通りで死者の腐敗した匂いをかいだ。それらの死体を取り除くのに1ヶ月かかった。ゴールドマンは、自分の配給物資を受け取るのに毎週神戸に戻ってきた[50]。」

()「神戸の大勢のユダヤ人たちは、戦争中(文化村に近い)有馬に逃げた。その中には、ジャック・シエウケの両親、サスーン一家、ファタル一家、それにマトック一家がいた。
カトリックの僧侶たちが有馬に小さな小屋を建てていた。戦争が起こると日本を去ったのでそこにユダヤ人が移っていった。
()サス・ファタルは、戦時中彼の家族を連れて有馬に移った。彼らの銀行の資産は凍結されていた。外国人たちは、バターとか油のような食料品を町から購入して山に戻ってくるのに必要なお金を限定的にもつことが許された。サスは、鶏肉と野菜を少し手に入れた[51]。」

()「山間にあった文化村は、子どもが遊んでいたところまでも、住居で一杯になった。サスの父親は、卵を産む鶏を飼っていた。彼らは、日本政府によって、手当て、つまり配給物資を支給されていた。サスは、食料品を手に入れるのに近くの農家に出かけた。それは、違法であった。また、闇市場があった。彼らはみな1944(19)年から1945(20)年にかけて飢えていた。農民は現金を必要とし、ユダヤ人は食べ物を必要としていた。もしもこの戦争が1945(20)8月に終わっていなかったら、ユダヤ人たちは、冬を越して生存していなかっただろう[52]。」        

()「エリザとエドワード・シャバニー(後のショーン)は、神戸が爆撃されているとき、文化村のバンガローを借りていた。
文化村には、14の建物があった。それらは、夏の休暇にやってくるイギリス人とアメリカ人たち向けのものであった。さながらレゾート地のようなところであった。エリザの神戸の母親(マトック夫人)の家も爆撃されたので、彼女もまた文化村に移ってきた。すべての14棟の建物は、ルーシー・シエウケ、ニシム・タウィル、ヴィクター・モッシュ、エリア・ミズラヒ(現在パナマ在住)、そして、サス・ファタルなどの神戸のユダヤ人で満杯となった[53]。」

  タマール・エンジェルは、モッシュとは、若干異なる意見を発表している。
「空襲を避けるため、神戸のほとんどのユダヤ人は、1945年に4月に有馬に移った。彼らは、京都大学の教授たちが避暑に出かけるために建てた12軒のバンガローを借りた[54]。」

   ユダヤ人難民と神戸の人々との関わり
    金子・マーティンは、「神戸・ユダヤ人難民」の中で、次のように述べている。
 「シベリア鉄道でウラジオストックまで着き、連絡船で敦賀港に到着したユダヤ人難民に、敦賀の人々は好意的に接したようである。敦賀の大内町に『朝日や』という銭湯があり、そのは、経営者がユダヤ人難民たちを無料で風呂に入れていたとの証言がある。だが、神戸に関する類似した資料は未発見である。」さらに、マーティンによれば、「難民として敦賀に到着し、横浜や神戸の都市に滞在したワルハフティフは、日本人について、『人々は規律正しく勤勉で、一見したところ穏やかだが、内向的で疑い深くもあった。…一般的にいって、外国人に対する警戒心があった。』と回想している。」といっている。

この記事は、衝撃的であった。それは、神戸の人々特に北野町・山本通の人々の不適切な対応の可能性を示唆しているように感じられたからである。し、未発見であるということは、必ずしも神戸の人々が、冷淡な対応をしたということにはならないと思いなおしながら、当時住んでいた、できるだけ多くの方々にお話をうかがい調査を進めた。1941(16)年、当時18歳、県一卒業後専門学校の英文科に通っていた、北野町1丁目在住の女性(89歳)によれば、彼女の隣近所はすべてオランダ人、イギリス人、ドイツ人などで、日本人はほとんど住んでいなかった。生まれたときから、普段に西洋人に出会っていたためか、当時のユダヤ人に対しても、特別な関心を持つということがなかった。そして、家族の中でも、ユダヤ人のことは、あまり話題とならなかったという。4月ごろ、山本通1丁目の坂のあたりで、4050人のユダヤ人難民に、通学の途中に何度も見かけていたが、自らユダヤ人に接触しようとはしなかった。確かに当時の北野町・山本通の人々は、外国人に対して、内向きで心を開いていなかった一面はあったかもしれないが、一方で外国人を特に西洋人を尊敬し、また、畏怖していたというのだ。その他の地域の方の話からも、よく似た心理状況だったことがうかがえた。その中でも、「北野町・山本通の人々との交流の話が残っていないのは、外国人の存在が特別なことではなく、北野町・山本通では、当たり前だったからではないか。」という話が印象的であった。外国人が多数いるということが、日常であり特異なことではなかったというのである。北野町・山本通の人々との交流の話があまり残っていない理由を考えるとき、北野町・山本通の人々の間に育まれてきた国際性の歴史も多少は考慮しながら、ワルハフティフの話を受け止めることも必要であろう。
  
   モッシュやその他の人々が、そんな中、神戸の人々とユダヤ人と交流の一面を拾い上げてくれている。

(ア) レオン・ハニン
レオン・ハニンは、トケイヤーに、「カポテ(すその長いコート)とかヤルムルカ(頭巾)を着て、ペイ(長いもみ上げ)のユダヤ人の写真が日本の新聞に載り、ヨーロッパの戦争から避難してきた難民として表現されていたことや大方の日本人の態度は、『かわいそう』というものだった。」と話した。日本では、当時日用品など配給制であったけれど、日本の店の人たちが自分たちの貴重な日用品を難民たちに与えていた[55]。」
                    

(イ) マーシャ・レオン
「マーシャ・レオンは、ワルシャワから来た。彼女の船は19412月神戸を出た。彼らは、日本人の公衆浴場に行った。マーシャは、半分日本人で半分ドイツ人の子どもたちと遊んだ。しかし、誰一人としてそんなことに気を止めなかった。彼女は日本を出てからカナダで亡くなった。彼らは、日本人はユダヤ人に親切だったと語ることは、それから4年後まで許されなかった。マーシャは、日本人の一人の少女と仲良くなった。その少女はそれまでアメリカの日本人収容施設に抑留されていたのだ。難民のマーシャには、人は誰でも珍しい存在に見えるものだ。マーシャは日本人と仲良くなったために排斥された[56]。」 
キャロリン・スーは、現在ニューヨークのジャーナリストをしているマーシャ・レオンについて、次のように伝えている[57]
「日本では、ヨーロッパのユダヤ人難民は、神戸のユダヤ人共同体に守られた。杉原領事によって助けられた難民であったマーシャ・レオンは、当時を振り返って、『神戸での暮らしは、まるで天国のようだった。』と話している。」
        
(ウ) エリザ・ショーン
エリザ・ショーンについては、カナダ・ブリチッシュコロンビア州のユダヤ人博物館とアーカイブスに記録が残っている。その中で、エリザ・ショーン自身が、「神戸は、すばらしいところだった。」と語っている。
   また、ソーファーも、エリザ・ショーンについて、述べている。
   「エリザ・ショーンは、文化村にいるとき、ロシュ・ハシャナ(ユダヤ教の新年祭)のために、日本人に特別に砂糖とお米がほしいと頼むとその休日用に手に入れることができた。日本人は彼らに大変親切であった[58]。」


(エ) ユダヤ人難民の子どもたちと農民・医者
「神戸のユダヤ人の歴史」というインターネット上に、次のような記載がある。
「(ユダヤ難民が神戸にいたとき)避難民の中に60人を越える子どもたちがいると聞いた日本人の農民から、一通の手紙がジューコム本部に届いた。自分が育てている果物を子どもたちにプレゼントしてやることができたらうれしいと書いてあった。そして、ある神戸の医者が、子どもの治療をしてやったとき、その子どもがユダヤ難民であることを知って、お金を受け取らなかった。このような思いがけない親切な神戸の人の行動は、難民たちに心からの安らぎを与えた。多くの日本人たちは、ユダヤ人難民に対して、十分にお世話できず、申し訳ないと話している。神戸のユダヤ人共同体は、自分たちの宗教を行い、二つの機能するシナゴーグをもつことができた。」


タマール・エンジェルが現在のユダヤ共同体について述べている。

   現在のコミュニティ・センターは、1970年に建てられた。共同体は適切なシナゴーグを建設するための基金を集めた。ラモ・サスーンは、コングリゲーションに寄与するために土地を最高額より安く売却した。現在のシナゴーグは、北野町にある。北野地区は神戸の外国の建築物の最も多く見ることができる地域である。北野は、商業活動のハブ(中心)の三宮駅から徒歩で10分ばかりのところにあり、市街を見渡す丘の上に位置している。この地域には、シナゴーグだけでなく、ロシアの正教会、イスラム教のモスク、そして、カトリックの教会がある。現在のシナゴーグが建てられたとき、共同体は大きく、一般的に裕福だった。きわめて少数のユダヤ人が貿易をまたやろうとして、日本の近代化に役立とうとして、やってきた。ジム・ゴールドスター船舶会社が、神戸に支店を持っていた。真珠業にかかわる多くのユダヤ人やその他のビジネスにかかわるユダヤ人が住んでいた。その当時繁栄していたユダヤ人たちは、日本が近代的な経済に発展するためには、援助を必要としていたことから、もっとも日本はそのように発展したのだが、ユダヤ人はその手助けをしたのである。
 
1995年1月の阪神淡路大震災は、神戸のユダヤ共同体にも多くの試練を課した。多くの会員は住居を失い、財産をなくした。彼らは、神戸から去ることを余儀なくされた。会員は、奈良や京都に家を借り、神戸がきれいになり、復興するのを待った。一人の会員がシナゴーグの近くにアパートを所有していたが、激しい地震で粉々に砕けてしまった。彼は、イスラエルに帰ってしまった。また、遠くに住んでいた会員も、土曜日ごとに北野のシナゴーグに行くことが難しくなった。シナゴーグ自体もこの地震で被害をこうむった。正面の壁は修理を必要とした。近くのユダヤ人墓地も被害があり、いくつかの墓碑にひびが入った。ユダヤ人共同体は、募金を集めるのに、第3級のブナイ・ブリスの会員にも呼びかけ、read-a-thon(本を読んで募金を集める活動)を開いた。
 
急激な会員の減少にかかわらず、神戸のユダヤ人共同体の現在の会員は、多様で積極的な人々の集まりである。永世会員となっている人は、関西一円で70人となっている。その人たちは、大阪、京都、そして、奈良から来ており、出身国は、ニュージーランド、イギリス、アメリカ、カナダ、シリア、イラン、モロッコ、イラク、ドミニカ共和国である[59]

おわりに
私は、今までユダヤ人の姿は、よく見えないものだなどと不遜にも勝手に決め込んでいた。神戸の外国人を意識するときユダヤ人という目で見ていなかった。ユダヤ人をしっかり見ていなかったことを恥ずかしく思い、反省している。彼らは、神戸という大地にしっかりと根を張り、かくも生き生きと、そして、かくもたくましく暮らしていたのである。
2012.年年末に、あるユダヤ人から、e-mailが届いた。「…ユダヤ人たちは、1930年代から1970年代にかけて、日本でよいくらしをさせていただきました。私たちの家族は、日本政府と日本の国民、そして、神戸市民の皆さんにいただいた最もすばらしい取りはからいに感謝しています[60]。」
予想されたことであったが、私は、彼らの宗教的な信仰の深さと団結力、そして、互助的なグローバルなネットワーク広がりに、改めて畏敬と感動を覚えた。そして、何にもまして、彼らの人間としての寛容さとその強靭さを何といえばよいのだろうか。グローバリゼーションが避けられない現実となった現在、日本が学ぶべきものが、そこにあるといえるのではないか。
たとえ社交辞令とはいえ、かくも感謝されることを、我々は、彼らにしたのか、まずその反省から始めなければならない。







[1] タマール・エンジェル Tamar Engel関西ユダヤ協会 オヘル・シェロモ・シナゴーグ所属 「The Jews of Kobe1995年 インターネット上に発表している。タマール・エンジェルの文章は、この「The Jews of Kobe」に拠っている。インターネット上の原文は英文。翻訳は筆者による。原文にはページ数はうってないが、以下便宜上仮のページをつけている。
The Jews of Kobe」p1
Among these cultures, it is not surprising then to find that Jews make up a part of the multiethnic community in Kobe.

[2] 神戸外国人墓地 森林整備事務所による。
[3]  1861年ロシア、ポーランド系のポグラム難民が長崎に移住したとされる。
[4] 長崎の坂本国際墓地のユダヤ人区域には、29基の石碑がある。
[5]  Jewish community」の邦訳を「ユダヤ人共同体」としている。
[6] デヴィッド・モッシュ S.David Mocheがリサ・ソーファー Lisa Sopherと一緒に「神戸のユダヤ人の歴史」について、多くのユダヤ人に取材した記録の一部が、「History of Jewish Kobe, Japan」として、2009年にインターネット上に公表されている。モッシュの文章は、この「History of Jewish Kobe, Japan」に拠っている。インターネット上の原文は英文。翻訳は筆者による。原文にはページ数はうってないが、以下便宜上仮のページをつけている。 「History of Jewish Kobe, Japan」p2
[7] Baghdadi  アラビア語でバグダッドを意味する。
[8] ゾラフ・バルハフティク Zorach Warhaftig ポーランドとイスラエルで活動した宗教シオニズムの最高指導者の一人。数々の業績をもつ傑出した人物として知られる。「Refugee and Survivor」邦題「日本に来た ユダヤ難民」滝川義人訳がある。
[9]「日本に来た ユダヤ難民」P153
[10] 1905(38)1231日の神戸市統計書によれば、神戸在留外国人の内アメリカ人177名、ドイツ人205名、ロシア人0名、トルコ人3名、ペルシャ人4名となっている。

[11] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp23
 セファルディム…元々スペイン・ポルトガルに定住したユダヤ人を指すが、一般的に中東系ユダヤ人を指す。アシュケナジム…ドイツ語圏や東欧に定住したユダヤ人のこと。一般的にヨーロッパ系ユダヤ人を指す。
[12] 「日本に来た ユダヤ難民」ゾラフ・バルハフティクP154

[13] 「日本に来た ユダヤ難民」ゾラフ・バルハフティクP154

[14] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp4
[15] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp3
 サム・エヴァンス 日本国籍を持つ。神戸に在住した外国人の間で、知らない人はいなかった。
[16] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp4
 エズラ・シュウエケ シュウエケ邸の当主。
[17] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp5
 ラモ・サスーン 現在のサスーン邸は、息子のデーヴィドが住んでいた。
[18] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp6
[19] The Jews of Kobe」タマール・エンジェルp1
 現在も北野町4丁目のユダヤ協会は、オヘル・シェロモーと呼ばれている。
[20] The Jews of Kobe」タマール・エンジェルp1
[21] 「日本に来た ユダヤ難民」ゾラフ・バルハフティクP159

[22] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp7
[23] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp6
[24]  通称「The Joint」ジョイントと呼ばれる。
[25] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp8
[26] 「日本に来た ユダヤ難民」ゾラフ・バルハフティクp158
[27] 金子・マーティン Kaneko Martin 1949年生 オーストリア人ロマの迫害史や
ホロコーストの研究者。著書「神戸・ユダヤ人難民」など。デヴィッド・
クランツラー David Kranzler 著書「日本人、ナチスとユダヤ人」
[28] 「日本に来た ユダヤ難民」ゾラフ・バルハフティクp160
[29] HICEMHIASICAEmigdirectの頭字語  国際ユダヤ人機構
1927(2)年にユダヤ人の移民を取り扱うために設立された。
[30] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp9
[31] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp910
[32] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp10
[33]  1941(16)29日付朝日新聞「流浪のユダヤ人」
[34]  1941(16)210日付朝日新聞「流浪のユダヤ人」

[35]  1941(16)212日付朝日新聞「流浪のユダヤ人」
[36] History of Jewish Kobe, Japan」p11
[37] 一宮神社宮司山森大雄美、寺西美智子、平井  その他の方々の情報による。
[38] 「神戸・ユダヤ人難民」金子・マーティンp235
[39] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp14
 原文では、日本人女性の名は、「佐藤いずみ」となっている。

[40] 「神戸・ユダヤ人難民」金子・マーティンp234
[41] 「日本に来た ユダヤ難民」ゾラフ・バルハフティクp222

[42] 「日本に来た ユダヤ難民」ゾラフ・バルハフティクp74
[43] 「神戸・ユダヤ人難民」金子・マーティンp205

[44] 「神戸・ユダヤ人難民」金子・マーティンp241

[45] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp15

[46] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp1415
[47] 垣田ひろ子・増田寿美子両氏他による。
[48] 昭和13年駐独大使の通訳 刑部氏と思われる。
[49] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp15
[50] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp15
[51] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp16
[52] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp16
[53] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp16
[54] The Jews of Kobe」タマール・エンジェルp4

[55]History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp12
[56] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp1213
 北出 明氏が 「命のビザ遥かなる旅路」の中で、マーシャ・レオンと
(神戸の)一般市民との交流があったことを取り上げている。p182
[57] Caroline Hsu A Hero Amid Horror
[58] History of Jewish Kobe, Japan」モッシュp17
[59] The Jews of Kobe」タマール・エンジェル p56

[60]  The History of The Jews in Kobe P5
  “ The Jews had a good life in Japan from the 30s to the 70s and our family is very grateful for the excellent treatment given to us by the Japanese government, the citizens of Japan, and the residents of Kobe.”